映画「ドリーム」:人種と性差を飛び越えたワーキングマザーがいた

本日、日本公開だった映画「ドリーム」を観てきました。
Lean In Tokyo Co-Founderの方がおすすめしていらっしゃるのをFacebookで見かけて、興味を持っていたので初日に行けてよかったです。

1961年、舞台はまだ東西冷戦が終わっていないアメリカ・NASA。当然、コンピューターも黎明期のこの時代に、「計算係」として働いていた3人の黒人女性の、生き様を垣間見られるノンフィクション映画です。

お恥ずかしながら、当時の人種差別の状況や性差別の実態について、ほとんど無知なまま映画館に滑り込みました。
初日朝イチの回にもかかわらず、(しかも、としまえんというアクセス良好とは言い難い場所だったのに、)ほぼ満席。「意外と人いるなあ」くらいの気持ちで始まった「ドリーム」でしたが、迂闊でした。

私は知らなさすぎた。当時のアメリカが、完全に白人と黒人とで世界が分断されていたことを。通える学校も、使えるお手洗いも、黒人には「非白人用」が強いられていたことを。黒人女性は、職場で就けるポジションはもちろん、オフィスで使う共有のコーヒーポットすら、同じものは使えなかった事実を。自分が配属されたビルに、非白人女性用のお手洗いがないため、用を足すためだけに走って別のビルに駆け込まなければならなかったことを。

そして、その差別が当然のものとして認められている社会を、この映画を通じて垣間見られたことは大変意義深いものでした。

差別を受ける主人公の黒人女性たちは、公には怒りをあらわにしたりしない。その差別がある前提で、最善のことをやってる。黙々と。

でも、周りの白人同僚たちの大多数は、その姿勢に無関心でした。もちろん、そんな暗黙裡を飛び越えてフラットに彼女たちを同志として受け入れたNASAスタッフもいたけれど、その協力がなければ彼女たちの活躍は実現しなかったことも描かれていたけれども、私の印象に残ったのは、「差別を放置する無関心さ」かもしれない。

社会の暗黙裡が差別を生み出している事実がそこにあっても、それを変える必要性を自分ごととして引き寄せる人間が、いかに少ないか。

人間として感じる自分自身の違和感を、マジョリティ側は「なかったことのように処理」した方が楽なんだと思う。

今、働き方改革の必要性とともに、マイノリティ(女性や若者、LGBT、障害者)の雇用促進やダイバーシティが叫ばれているけれど、マジョリティ側の意識が変わらなければ働き方も変わらないと思うし、そのためにはマイノリティはやるべきことを淡々と、やり続けるしかないのだと思う。

映画「ドリーム」の主人公たちは、黒人女性としてだけではなく、子どもを、家庭を持つワーキングマザーでもありました。夜遅く帰ると子どもが「おやすみ」を言うためだけに寝ないで待っていたり、子どもを連れて図書館に行けば「黒人は専用の図書館に行け」と追い出されることもある。そんな時、子どもに何をどう説明すべきなのか。子育ての面でも大きな苦労を背負いながら、人種差別も性差別も乗り越えたことを想像すると、頭がクラクラして卒倒しそうになりました。涙も止まらず。

だけれども、「あの胆力はどこからくるんだろう?」という問いを持てたことは、映画「ドリーム」を見た最大のお土産かもしれません。これから、自分なりの答えを探していきたいと思います。

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